礼拝メッセージ

2025/10/5聖霊降臨節第18主日   「ラクダと針の穴」

マタイ19:16-30、フィリピ3:12-14、ホセア11:5-9
讃美歌 508

イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(19:23−24)

Ⅰ.為すべきただ一つのこと
きょう、皆さんと共に審きの座(十字架のキリスト)を見上げ、心を高く上げて聞きたい御言はマタイ福音書19章16節以下、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのか」という問いを持って主イエスを訪ねた「たくさんの財産」をもつ青年の物語である。若者は、エデンの園を追放された人間は、再び聖なる神の前に立つことができるのか、と問うたのである。これがこの対話に独特の深みを与えている。
永遠の命を求めて主イエスのもとを訪ねた青年に思いを馳せていたとき、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と語り出す『コヘレトの言葉』が、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」と結ばれていることが思い起こされた。「年を重ねることに喜びはない」というコヘレトの言葉は、ジャン・アメリイが『老化論』で語った言葉、「老化は、荒れ果てた人生地帯であり、どんな理性的慰めもない。ごまかしが絶対にきかないのだ。……老化においてついに私たちは、死ぬこととともに生きなければならない」に通じる。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」コヘレトのこの言葉は、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」という問うた青年を彷彿とさせる。詩篇119篇に、「若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません」(9)とある。主イエスと若者が交わす会話は、この詩篇の言葉に準じて行われる。どんな善いことをすれば永遠の命を得られるか、と問う若者に、主イエスは「掟を守りなさい」、つまり神の言葉の中核、十戒を守るよう提示される。すると青年は、「そういうことはみな守ってきました」と答える。
青年は「コヘレトの言葉」にあるように、青春の日々に創造主なる神を心に留め、詩篇119篇の詩人のように、み言葉に従い、それを守って、おのが身を清く保って来たのである。その青年が、「まだ何か欠けているのでしょうか」と問うたのである。ちなみに、この青年の言葉を伝えているのはマタイだけである。
豊かさを享受し、神の言葉によって身を清く保って来た青年が、人生の問題に突き当たったのである。「存在の無意味性がおそらく、後期資本主義のもっとも特徴的な現象である」と言った人がいる(P・ティリッヒ『プロテスタント時代』)。青年は、神の言葉の力強さと、彼自身の生の無意味さについての経験から自分の人生になお欠けたものがある、存在の無意味性を知ったのである。この青年に、主イエスは、「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われる。
この言葉を聞くと青年は「悲しみながら立ち去った」のである。「たくさんの財産を持っていたから」とマタイは付け加える。重荷を負う多くの人々が主イエスに出会い、主イエスの言葉を聞いて、悲しみが喜びに変えられたのに、この人は主イエスの言葉を聞いて、「悲しみながら立ち去った」のである。
この青年と対極のあり方をしたのがパウロである。パウロもこの青年のように主イエスに出会う前、肉を誇りとして生きていた。そのパウロが、キリスト・イエスを知る絶大な価値ゆえに、それら一切を塵芥とみなしたのである。彼は言う。「わたしは、既にそれを得たとか、既に完全な者になったというのではない。何とかして捕らえようと努めているのである。……なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目ざしてひたすら走っているのである」と。永遠の命を求めて主イエスのところに来た青年も、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けてひたすら走るべきではないのか。しかし青年は、前のものから目を背け、後ろのものに向かって行ったのである。

Ⅱ. 現世への執着
この青年の姿を思い巡らしていたとき、コットレルが『ピラミッドの秘密』に記した言葉が思い出された。ある研究によると、ギザのピラミッドの高さの二分の一で、底辺を割ると円周率が得られ、高さを十億倍すれば、地球と太陽の距離となり、重量を百万倍すれば、地球の重量が得られる、さらに、その四辺は信じがたいほど精密に東西南北を示しており、それによってコンパスの狂いがすぐに目につくというのである。しかしコットレルは、ピラミッドの不思議さは、このような数字にあるのではないと言う。「ただ一つのことだけは確かだ。最後のヴェールが剥がされ、そしてピラミッドがすべて知り尽くされる時がやって来たとしても、その魅力の尽きることはないであろう。(「四千年が見下ろしている」とナポレオンを圧倒した)エジプトの空に聳えるピラミッドの偉容は、時に対する大胆な反抗と人類の不死への希求の故に、未来の人々の心をかきたて続けることであろう。」
古代エジプト人の墓に対する、そして遺体に対する異常な執念は、死後の魂の永生(安住)を願った彼らの熱望のなせる業なのである。宗教学者M.エリアーデは、「死の神秘を思索することによって、エジプト人はその天才によって最後の宗教的総合を実現した」と語った。問題は、あれほどまでに永遠の生命を熱望しながら、実際のところ、彼らが魂の再生を信じていたかは疑わしいということである。紀元前5世紀、ギリシアの歴史家ヘロドトスは、第三ピラミッドを建立したメンカフラーについてこんな話を伝えている。第一ピラミッドの主ケオプス、第二ピラミッドの主カフラーに次いでファラオの地位に就いたメンカフラーは、それまでの暴政を正し、神への生贄も再開し、大いに善政を施した。そんなある日、彼のもとに一つの神託が届く。「お前は後六年生き、七年目には死ぬ」と。この神託を聞いたメンカフラーは、おびただしいローソクを作らせ、夜になるとそれに火を灯して歓楽に耽り、「夜も昼にして」六年の余命を十二年に使ったというのである。
もしメンカフラーが魂の永生を信じていたなら、夜を昼にしてまで現世に執着する必要があっただろうか。主イエスは言われる。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)。私たちは〈今日〉という日を、神と出会う備えとして生きれば十分なのである。そのために神は「死の固めの式」、聖晩餐を備えてくださったのである。しかしメンカフラーがしたことは、「夜も昼にして」歓楽に耽るという現世への執着であった。主イエスのもとを立ち去った青年にあったのもまさにこれではないか、すなわち現世への執着である。そしてそれは、私たち現代人の生き様でもある。
しかし、この出来事はこれで終わらない。主イエスはご自分のもとを去って行く青年の後ろ姿を見つめながら弟子たちに言われる。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。らくだが針の穴を通るとは絶対の不可能である。金持ちが神の国に入るのは、その絶対の不可能よりも不可能であると主イエスは言われたのである。しかも「重ねて言う」と念を押されたのである弟子たちはこれを聞くと非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言う。当時の人々の考えでは、豊かさは神の祝福なのである。神に祝福され金持ちが神の国に入れないのであれば、いったい、だれが救われるのか、と弟子たちは驚いたのである。この驚く弟子たちに主イエスは厳かに言う。「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる!」と。

Ⅲ.神と出会う備え
「神は何でもできる」とはどういう意味か? そのことを黙想しているとき、ホセア書11章に導かれた。ホセアは、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされる国家的危機の時代に活動した預言者である。ホセアは、イスラエルが滅びるのはイスラエルの罪ゆえであると語る。
_彼らはエジプトの地に帰ることもできず
アッシリアが彼らの王となる。
彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。……
わが民はかたくなにわたしに背いている。
たとえ彼らが天に向かって叫んでも、
助け起こされることは決してない。_
預言者は、イスラエルが救われることは絶対に不可能であると語る。しかし、これが預言者の最後の言葉ではない。神の救いを得る可能性が皆無であるイスラエルに、神はこう語るのである。
_ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。
わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であって、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者_であると。
マタイが、主イエスと金持ちの青年との対話で描いた、金持ちが神の国に入ることの絶対の不可能はこれではないのか。つまり、救うに値しない者を救う神の痛みの愛である。それとの関連で注目したいのが、マタイだけが伝えている特殊資料、28節、「イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」である。
主イエスが十二という数の弟子を選んで使徒、福音の使者としたのは、特別の考えがあってのことである。使徒の数十二は、イスラエル十二部族に相当するのである(マタイ19:28)。しかもこの十二人は、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき」と言われているように、終末時の救いの共同体を代表するのである。その新しい世界でイスラエルの十二部族を治める者に、イスカリオテのユダがいる!と主イエスは言明されたのである。それは私たちの理解、経験を超える。私たちはユダを巡り初代教会がどれほど苦心したかを知っている。それを端的に描いたのが最後の晩餐の記事である。初代教会は主イエスに、ユダについてこう語らせる。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその人は不幸である。生まれなかった方が、その者のためによかった」(26:24、平行箇所)と。
そうであるのに主イエスは、ユダも、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、……十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治める」と言われたのである。つまりマタイは、主イエスのもとを悲しみながら立ち去る若者と、金持ちが神の国に入ることの絶対の不可能、そして終末の救いの民を治める十二人の中にイスカリオテのユダがいることで、愛するに値しない者を愛する神の愛、腑が捩れるほどの神の痛みの愛、十字架のキリストを描いたのである。主イエスは十字架に上げられることで、愛するに値しない者を天にまで引き上げてくださるのである。聖なる神の御前に立たせてくださるのである。ゆえに、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目ざしてひたすら走る」ことだけである。
この生き方のエネルギー提供源が主の晩餐である。私たちは主の晩餐において、聖なる神の前に立つ天上の食卓を先取りするのである。聖霊の照明を祈り求めつつ、神が御子イエスを十字架に上げることで完成した「永遠の生命」を目指し、神の御前に立つ備えをしたいと思う。私たちは〈今日〉という日を、神に出会う備えとして生きれば十分なのである。

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